アルバム・レビュー
King Records
, 2011/6/8
20

AKB48と絶えず拡張している姉妹グループの驚異的な人気を見ていると、秋元康がある種の天賦の才能を持っていることは否定できない。最初、アニメのコンベンションや遊園地でのパフォーマンスに最も適したニッチ製品のように見えたものを、日本で最も成功したグループに作りかえたことは注目に値する。『ここにいたこと』のリリースは、AKB現象を分析する場合のどんな対象物とも同じぐらいによいプラットホームを提供し、秋元の才能がグループのマーケティングを超えて、AKBの音楽の中にも広がるのかどうかという疑問にも答えている。

マーケティングについて

AKB48レベルの商業的な成功を達成するためには、かなり多数の女性ファンをを引き付けなければならないことであろう。それにも関わらず、秋葉原のAKB48の劇場の外で待つファンの行列を見ると、そこにはごくわずかな女性しかいないのである。彼らの軽度なファンの多くは女性であるが、グループがすることのすべては男性ファン向けという前提で叙述されるのである。 このように、グループの成功が忠実に迎合するコアの男性ファンによって築きあげられ、女性ファンは「これが、魅力的と考えられている女性のイメージだ」「こうやるとかわいい」などというメッセージを単にフォローするよう誘われているのだ。

AKB48は子供っぽい無邪気な「萌え」のイメージを帯びているが、80年代のAKB48の前任者であるおにゃん子クラブの繰越商品であった、ある種のダイレクトな好色さは避けるという歌詞の内容の希薄なラインのイメージを持っている。実に「ここにいたこと」を聴くと、「制服が邪魔をする」を代表とする早期AKB48は多くの面でナイーブだったことがわかる。 セックスはより持続的なものである真実の愛の追求に向かって聴衆を引くつける単なるフックなのである。ここで言う「真実の愛」とは「消費者資本主義の容赦のない行進」のことである。

このことが顕著に現れているのは、浅薄な友情と相互援助の雰囲気の下で、AKB48のメンバーは「選抜選挙」とスペシャルエディションのCDを通してファンの愛情を絶えず奪いあうというメソッドである。「誰もみんなチームB推しですよね?」という歌詞にかかわらず、「チームB推し」では基本的にチームBのメンバーが、チーム内で誰がリスナーのお気に入りであるべきであるかをラップで競い合うのである。

この競争のパラダイムには、目に映るよりももっと深い意味がある。何十人もの少女が「真実の愛」の重要性とユニークさについての歌を架空の独身男性のリスナーひとりに向けて、一緒に歌っていると考えよう。 それは男性アイドルグループの曲を聴いている時、彼らが皆同じ少女を欲していると気づいた気味悪い瞬間に少し似ているが、何かが違うのである。 'N SyncやBlueのようなグループでは、バンドは主体であり、少女は対象物である。 彼らは誘惑する者であり、少女は彼らの獲物である。 AKB48の場合では、彼女らが歌いかけている架空の男性は主体であり、その男性の前にいる少女たちが、愛情を競い合う対象物と化している中で、男性は好きな少女を選ぶ力を持つのである。この関係は「ポニーテールとシュシュ」で最も明らかであり、この曲では、少女は、男性のリスナーの声を呈して、男性の見解から愛情の対象の追求を物語り、また、男性の愛は肉体的には決して報いられなないという明白なポイントをロマン化している。

「束ねた長い髪 水玉のシュシュ 恋の尻尾は
捕まえられない 触れたら消えてく 幻」

AKB48と彼らのファンが居住する二次元の世界では、「真実の恋」がそのように体系化されいる。 少女たちは、より複雑な人間の性格特色に関する記号として作用する、さまざまなあらかじめ予定された「萌え」な振る舞いの要素を使って、グループのフォーマットが許容する短い時間で男性の注意を引こうと努力する。それと同時に男性は審判役となり、お金をどれだけつぎ込んだかによって与えられる投票権を通して、愛情を示すのである。この場合の愛情は、財務会計のソフトウェアの感覚で捉えられている。

AKB48ファンが愚かであるというわけではない。 彼女らが歌詞を通して訴え続けている「ただ一つの真実の愛」の概念は、ファンとグループの両方が共謀している偽りなのだ。 グループとファンが、この興味深い後期資本主義のパスティーシュの愛を演じる時、言わば「秋元システム」は、ファンに時間をかけて、いろんなフレーバーを試すように奨励するのである。 「すべての女の子のパフォーマンスを見るために劇場に一度以上足を運んで下さい。違うバージョンのシングルを買って、セットを完成させて下さい。一人のメンバーを好きになるかもしれないけど、ほかの子も見てみないと彼女が一番いいとは分からないでしょう、ね?」

このように、AKB48とファンは、デートのシミュレーターのゲームを現実に、より大きなスケールでプレーしているようなものなのだ。AKB48同様、「ギャルゲー」やビジュアルノベルは、プレーヤーとゲームが共に真実の恋と、からみ合う運命のファンタジーの世界に入るというパラドックスの世界で作動し、それと同時にプレーヤーはそれぞれの少女の経路を完成するために複数回繰り返しプレーするよう奨励される。

「ヘビーローテーション」は、「真実の愛」の概念を強く押し出した楽曲であるが、それと同時に(おそらく無意識にであろうが)このリプレイの要素をほのめかしている。

「人は誰も 一生のうち 何回愛せるのだろう?
たった一度 忘れられない 恋ができたら満足さ」

このシステムの利点は、もちろん、コレクションを完成させるか、または自分が心から本当に愛しているメンバーに焦点を合わせるのか、ファンがすることなら何であろうと、秋元がその金を受け取るということである。彼がいつも勝つのである。

音楽について

音楽的に言って、AKB48がオタク文化から派生したというイメージは正確ではない。本当のオタク文化はその性格上いつも進化しており、ハードコアオタクのAKB48ファンのほとんどは、ももいろクローバーやボーカロイドソフトウェアのバーチャルワールドに興味を移していった。AKB48はいつもシミュレーションでいわばオタクがテーマのディズニーランドの乗り物なのだ。

対照的に、『ここにいたこと』は、日本全国のパチンコ店や、ゲームセンターで聴くような、薄っぺらな、ユーロビートに影響を受けたリズムの長年比較的変わることなく存在しているような楽曲である。これらの曲では、音は中で起こる特定の物事にリンクしているのではなく、かわいくて、漫画っぽくて、カラフルで、合成の明るい歓声のイメージにリンクされており、このような「夢を追いかけよう」が唯一のルールである世界では、便利なことに夢はラミネート加工されたメニューから選択でき、人間の交流と人生経験は商品と金融取引に簡素化できるのである。

このサウンドは90年代を喚起させられるが、本来的にはレトロではない。レトロであるためには最初に今日の音楽と模倣したい期間の間を意識的に区別しなければならない。 対照的に、この楽曲は若干の例外はあるものの、90年代の中間から90年代後半以来の音楽の進化の存在も全く認識しないのである。

AKB48のようなグループが、日本のポップミュージックシーンの頂点にいるのにかかわらず、世代に渡ってJポップに影響を与えるような新方向を定義できないことは残念である。ファン離れへの恐怖か、音楽産業でますます重要な位置を占めてきている広告主に対して信頼できるコンテンツを提供する必要があるせいか、または単なる想像力と好奇心不足のせいか、楽曲は少なくとも15年は停滞しているサウンドにかなりの度合いで依存しているのだ。

しかしながら、それは、アルバムがこのテンプレートから決して逸脱しないと言うわけではない。カラオケ録音のバックトラックから立ち直ることができるなら、2010年に発売されたシングル「ビギナー」の硬質なビートとより攻撃的なアレンジ、そして、歌詞は表面的な性的な円熟を無視し、親しみある偽りの感情の鼓舞を支持しているが、少女時代のような韓国の少女グループの人気の上昇への応答を試みたかのように聴こえる。

「子どものようにまっさらに…
支配された鎖 は引きちぎろう」

公平に言うと、「風の行方」とタイトルトラックの両方は十分有能なバラードである。また、「人魚のバカンス」は、人間によって書かれているかもしれないように実際に聴こえることや、ポップミュージックの正統な作詞作曲に最も近いものである点において、注目に値するが、いずれの曲もアルバムを救うことはできない(だが、言及には堪えるだろう)。

終わりに

AKB48の音楽はトータル・メディア・ミックスの比較的小さい局面であるように見えるが、AKB48とそれらの姉妹プロジェクトのエンターテインメントアイコンとしての人気のため、グループの後退した、子供っぽい、音楽的に冒険的でないアプローチに過分に合法性が与えられている、という問題が残っている。 韓国の少女アイドルグループKARAの最近の日本語のシングル「ジェットコースター・ラブ」と「ゴー・ゴー・サマー!」では、彼女たちはより成熟していてセクシーなイメージで人気が出たにもかかわらず、AKB48のような薄っぺらなサウンドとでチープなプロダクション・バリューとロリータ風の振る舞いを真似た。もっと心配なのは、日本で最も前衛的なポップグループPerfumeが、彼らの最近のB面の楽曲「微かなカオリ」で心配なほどにおなじみの感傷的な90年代風のバラードに滑り込んでしまったことだ。 AKB48の絶大な人気が、既に創造的に瀕死のポップミュージックシーンをこれ以上の深淵に引きずりこんでいくとしたら、本当に残念なことである。

Connor Shepherd & Ian Martin
2011年8月03日